史蹟など

笠原町に残る歴史的な名所・旧跡をご紹介します。

1

子安神社

製作中

2

笠原山銀河寺不動院址

2-1 銀河寺不動院の歴史 製作中

2-2 不動明王立像について 公開中

2-3 古学庵仏兮と松尾芭蕉 公開中

3

史蹟笠原水道

3-1 笠原水道 公開中

3-2 浴徳泉碑 公開中

3-3 漱石所址 公開中

3-4 金名水・銀名水 製作中

4

御嶽神社址

製作中

5

天満宮(笠原会館)

製作中

6

笠原地蔵と米澤のお地蔵様

製作中

7

庚申塚跡

製作中

8

道祖神跡(ドウロクジン)

製作中

史蹟 詳解
史蹟

笠原町と笠原不動尊

町の歩みと水源不動の由緒

銀河寺の遠景(『常磐公園攬勝図誌』より)
銀河寺の遠景(『常磐公園攬勝図誌』より)

1. 笠原町の位置付けと現状

茨城県庁の移転竣工、平成10年(1998)は、笠原町にとって極めて大きな出来事でした。

それ以前の出来事を遡ると、昭和37年(1962)に県立緑岡高校が開校し、昭和50年(1975)には笠原不動山に県立メディカルセンターが新設されました。

さらに平成3年(1991)、水戸市中央保健所および「いばらき健康管理センター」が相次いで新設されています。

その後、日商岩井を事業主体とした大規模商業施設(いわゆるメガモール構想)が発表されると、水戸市を二分するほどの大きな議論となり、町民は困惑の渦に巻き込まれました。

しかし現在、町はそれを上回る課題に直面しています。ここ10数年で分譲住宅が約1,500戸以上も増加しインフラ整備が追いつかない中で人口が爆発的に増え、笠原小学校の児童数は市内最多となりました。

今後は、より良い住環境が計画的に整備されることが切に期待されています。

2. 歴史的出来事とその背景

笠原不動院(銀河寺)の来歴については、明治13年(1880)の本堂焼失により創建年度などの詳細は不明です。しかし、多宝院文書(現・見川町の多宝院護国寺蔵)によれば、1607年(慶長12年)8月晦日に「浅草寺学頭」より下文(くだしぶみ)が出されていることから、江戸時代初期には既に存在していたことが確認できます。

水戸藩初代藩主・徳川頼房の時代に入り、幕藩体制の確立と藩経営を推進するため、寛文年間(1661~1673年)頃に新田開発が盛んに行われました。

笠原も、現在の千波・見川・平須などとともに開発が進められた地域の一つです。

『水府地理温故録』『水府志料』および『新編常陸国史』によれば、当時の笠原新田の状況は以下の通りでした。

範囲と構成:東は逆川(さかさがわ)を境に米沢村東野新田と接し、南は平須村、西は小吹村と見川村、北は千波村と払沢(はらいざわ)村に隣接。東西約30町(約3.27km)、南北約29町(約3.16km)の広さを持ち、上組・中組・下組の3つの集落で構成されていました。これらの呼称は現在も引き継がれています。

沿革:もともとは吉田村の荒れ地で「笠原」と呼ばれていましたが、正保年間(1644~1648年)以降に一村として独立し、寛文年間に「笠原新田」と名付けられました。

武士の入植:寛文4年の条には「水戸藩士の次男(家督を継げない男子)60人を御馬廻りに任じて笠原新田の地に置く」との記録があります。

規模:1702年(元禄15年)の石高は210石余りで、当時の地理志には戸数約40戸と記されています。

当時の町割りは、クランク状の「桝形(ますがた)」道路を中心とした街形成が一般的でした。これは京都や東京の下町、そして水戸市内にも多く見られる構造ですが、江戸時代は敷地の間口幅で年貢が決まったため、間口に比べて奥行きの長い敷地が多くなったことが要因とされています。

笠原新田開発は、藩が直接予算を投じて役人を派遣する「藩営新田」であったと思われます。『水府志料』には「山野才蔵という者が頭取として開発した」との記述があり、才蔵が開発の実務的指導者であったことが伺えます。

また、同時期に進められた下市の「備前堀」整備は、治水・灌漑・町割りの形成を目的とした重要なインフラ事業でした。1610年(慶長15年)に着工し、翌年には通水という驚異的なスピードで完成しており、関東郡代・伊奈備前守忠次が手がけたことからその名が付いています。

3. 笠原水道と「水源不動」の由緒

水戸藩初代徳川頼房は1661年(寛文元年)6月に水戸へ帰藩しましたが、急な病に倒れ同年7月に59歳で急逝します。

跡を継いだ2代藩主・徳川光圀(水戸黄門)は父の悲願を継承し「下市の飲料水確保」を真っ先に手がけています。これが水戸藩にとっての一大事業 笠原水道でした。

光圀は町奉行の望月恒隆に、恒隆は家臣の平賀保秀(ひらが ほしゅう)に設計を命じ、1663年(寛文3年)に「清水道(せいすいどう)」として完成しました。

『水府志料』によれば、設計を担った平賀保秀は、水源地近くにあった「笠原山銀河寺不動院」の不動堂で一昼夜参籠祈願して、この地を水源地と定めた」とされています。

光圀は、幼少期に遊んだ笠原の湧水が民のために役立ったことを殊の外喜んだと伝えられています。

平賀は下総国佐倉の堀田家に仕えたのち浪人となり、光圀公に登用された和算(数学者)出身の技術官僚でしたが、数理だけでなく天文・地理・測量などの諸科学にも通じており、見事にその任を果たしました。

笠原水道が完成した後、天和3年(1683年)に『漱石所規約』が制定された頃、平賀が祈願した「不動堂」も水源地の坂の上へと曳家(ひきや)され、「水源不動」として祀られることになりました。※寛文5年(1665年)との説あり

4. 幕末の廃仏毀釈とご本尊の秘匿

銀河寺不動院と水源地上の不動堂は、公の命によって1683年以来銀河寺によって一体的に管理されてきましたが、幕末以降は複雑な経緯を辿ります。

天保14年(1843)、9代藩主・徳川斉昭(烈公)は不動院を廃寺し、その地に「水戸神社」を祀りました。この騒動の際中、ご本尊は行方不明になったと記されています。

『水戸市史』では「長福寺へ預けた」、『東茨城郡誌』では「行方知れず」と記されていますが、実際には笠原町の銀河寺檀家が密かに匿い、守り伝えてきたのが実態でした。

今回 再発見されたのが 笠原水源不動の御本尊「不動明王立像」です。

近年浴徳泉脇の藪の中から、故意に傷つけられ折られた状態で「不動堂再建碑(1819年建立)」が発見されています。当時の強引な廃仏がいかに凄まじいものであったかを物語っています。

時の寺社奉行・今井金衛門による銀河寺の釣鐘没収や不動院の廃寺、水戸東照宮の神道一本化などの断行は、後に斉昭が永蟄居を命じられる大きな要因の一つになったと言われます。

しかし廃寺からわずか4年後の弘化4年(1847)に不動堂には再び「倶利伽羅不動(くりからふどう)」の扁額が奉納されました。

この様な経緯から水戸神社は敷地の奥に移され、仏堂内には倶利伽羅龍の奉納額がご本尊の身代わりとして鎮座しました。さらに昭和50年(1975)の仏堂再建を経て、実に180年もの長きにわたり、水源不動としての役割を果たし続けてきたのです。

地元住民から「お不動さん」と慕われ かけがえのない心の拠り所だったのです。

5. 口伝の裏付けと令和の遷座 ―再発見された水源不動―

笠原町には「歴代の氏子総代が持ち回りで仏像を預かっていたが、訳あって圓通寺に預けている」という口伝がありました。私が調査のため圓通寺を訪ねたのは2009年(平成21年)のことですが、当時のご住職から「確かに笠原の氏子中から不動明王像を預かっている」との証言を得て実物を確認し、伝承が正しかったことが確認されました。

銀河寺は天台宗、預け先の圓通寺は曹洞宗という違いがあり、2024年(令和6年)5月に改めて圓通寺を訪ね、諸々のご相談をさせていただきましたところ、歴史的経緯を尊重し、本来の宗派である天台宗門へ遷座することが適切であるとの結論に達しました。

その後、笠原子安神社氏子会総会での全会一致を経て、一任を受けた総代の私豊田が責任を持って仏像を管理しています。そして以前発見していた銀河寺に纏わる関連遺物(御影掛軸、版木、梵字印、女人講記録帳など)も含めて、調査と再整理を進めている所です。

これらの遺物は歴史的に極めて貴重な郷土の遺産であると同時に、笠原の誇りであります。

6. 不動堂の老朽化と再整備

2017年にテレビ番組『ブラタモリ』で笠原水道が特集され、歴史的な暗渠水道として全国に紹介されました。一方で、水源地の真上に立つ不動堂は老朽化が深刻で、同年の『爆報!THE フライデー』では「管理不全の空き家寺」として紹介される事態となりました。

倒壊の危険性や安全面、衛生面の問題から再整備が急務となりましたが、敷地は水戸神社、建物は仏教施設、敷地周辺は逆川緑地公園地区という、複雑な権利関係から行政の介入は困難を極めました。

しかし、高橋靖水戸市長による私募基金の設立や、町内会・関係各所からの協力により、2022年(令和4年)に解体撤去が実施され、2024年(令和6年)5月には記念碑の除幕式が挙行され、長年の懸案が解決へと向かいました。

おわりに

急速な発展を遂げる現在の笠原町において、こうした奥深い歴史を知ることは極めて重要です。歴史を知らなければ、単なる新興住宅地として扱われてしまう危うさがあります。

今回の水源不動のご本尊発見が、郷土の歴史に思いを馳せるきっかけとなれば幸いです。

更にこの遺産が、未来に向かって発展する水戸市の原動力となることを願ってやみません。

老朽化した不動堂の解体・安全祈願(2022年)
老朽化した不動堂の解体・安全祈願(2022年)

■光圀公が隠居した元禄四年(1691)以降、公は度々この地を訪れ「曲水の宴」などを催されています。其の折に詠んだ詩をご紹介します。「五言俳律」

題【夏日遊玖利伽羅山銀河寺林中即興 得池字】 元禄五年壬午(みずのえ うま)

憶曾遊此地 一夢十周朞 不動威厳矣

軽雷聲殷其 雨晴炎暑退 風快積雲披

漱石堅人歯 臨流洗我詩 飛泉清遶座

傾海酔揚巵 瀉下銀河水 漚涼無熱池

(大意)

かつてこの地に遊ぶを思ふ 十年一昔は夢のように過ぎた 不動の威は厳かに感ずる。

かすかな雷鳴が時折聞こえる 雨があがり炎暑が退き風が快く積雲は抜けてゆく。

孫楚漱石ではないが 我は詩で流そうなどと考える 泉の水は座の周りを清らかに流れている。

海を傾けるがごとく飲んで 酔って杯を揚げるとは何と楽しい事よ。

勢いよく銀河の水が注がれ ここは涼しきことこの上ない阿耨達池のようだ。

■常盤公園覧勝図誌 (坤)より 明治十八年十二月刻成

志けりあふ

笠原山の 下露ハ ぬれぬ時雨の 何めより

まされり

戸牧久

「読み下し文」

生い茂る 笠原山の 木々の下の露は 漏れることのない 時雨(しぐれ)の 雨よりも まさっている。

戸牧久衛門(とまき きゅうえもん) 水戸藩士・歌人

2026年(令和8年)8月

【文責】  水戸市笠原町中組  郷土史家 豊田洋一

史蹟

笠原不動明王立像 略歴詳伝

四百年の流転と護持の歴史

修復後の笠原不動明王立像(令和8年修復)
修復後の笠原不動明王立像(令和8年修復)

1. 序文

水戸の南郊、笠原の地は逆川が刻んだ谷筋に豊かな湧水を湛え、古来より人々の生活の礎となってきた。この地に安置されてきた「笠原不動明王立像」は、単なる仏教遺物ではない。水戸藩第2代藩主・徳川光圀公が父・頼房の志を継いで創設した「笠原水道」の守護神として、藩政初期の環境保全思想を体現し、さらには幕末の廃仏毀釈という激動期にあって、地域住民の信仰心によって命懸けで守り抜かれた「民衆の記憶の象徴」である。本稿では、四百年にわたるその数奇なる流転と護持の歴史を、現存する諸史料に基づき詳述する。

2. 信仰の揺籃と水道開削の祈願(17世紀初期〜1663年)

笠原における不動信仰の起源は極めて古い。慶長12年(1607年)の「笠原不動別当之事」に見える「払沢不動」の記述は、この地における信仰の深さを物語る。

寛永20年(1643年)には既に「笠原山田狩不動堂」の存在が記録されており、地域共同体の中心として不動堂が機能していたことが判明する。

この信仰が水戸藩の公的事業と交差したのが、寛文年間である。寛文2年(1662年)、郡奉行・平賀保秀は、水戸城下への飲料水供給を目的とした水道事業の計画において、その源流を笠原に定めた。保秀は事業の成功と水源の永続を願い、銀河寺不動院の不動堂にて一昼夜参籠し、神仏の加護を仰いだのである。この歴史的事実により、笠原不動は「水道の守護神」という特別な神格を獲得することとなった。

3. 「水源不動」としての成立と「漱石所」の管理(1665年〜18世紀)

寛文3年(1663年)の水道開削完成後、光圀公は水源のすぐ側に茶亭「漱石所」を設けた。そして不動堂は従来の場所から湧水口を見下ろす坂の上へと曳家(移築)され、「水源不動」としての体制が確立した。

光圀公は、この地を文人政治の拠点とする一方で、天和3年(1683年)に「漱石所規約」を制定した。そこでは、水源地における魚釣の禁止、不動堂付近での肉食の禁止、清浄の保持が厳格に定められた。管理を委任されたのは薬王院直末の「笠原山銀河寺不動院」であった。銀河寺と不動堂、そして光圀公の漱石所が織りなす「水源環境保全のトライアングル」は、江戸初期における優れた環境管理政策の先駆けであったといえる。

4. 幕末の廃仏毀釈と「秘匿」の伝承(1843年〜明治期)

江戸中期から後期にかけて、銀河寺住職の古学庵仏兮(ぶっけい)藩士岡野湖中らによって、地域俳諧の拠点としても栄えたが、天保14年(1843年)、徳川斉昭公の天保の改革(修祓)により運命は一変する。藩庁の命により不動院は廃寺となり、不動堂内には水戸神社が祀られた。通常であれば、この時点で不動信仰は断絶しても不思議ではない。

しかし、笠原の住民たちは違った。彼らは「ご本尊を密かに秘匿する」という決死の選択を行ったのである。この隠蔽は、単に仏像を守るという行為を超え、先祖から受け継いだ水道の守護神を失うことへの強い抵抗であった。わずか4年後の弘化4年(1847年)に、水戸神社は域外へと移され、新たに「倶利伽羅不動」の扁額が奉納された事実は寺院という制度を失いながらも、不動尊を崇める地域信仰が形を変えて存続していたことを何よりも証明している。

5. 現代への継承と奇跡の再発見(昭和〜令和)

明治の神仏分離、戦後の混乱を経て、ご本尊は長らく所在不明となっていた。しかし、地域には「かつて不動堂に安置されていた不動明王は、氏子たちが守り続けてきた」という伝承が代々語り継がれていた。昭和50年(1975年)に不動堂が再建された後、平成14年(2002年)から開始された調査によって、その行方が次第に明らかとなってきた。

特に平成21年(2009年)、圓通寺の高倉住職による「不動明王は笠原氏子中からの預かり物である」という証言は決定的であった。そして、令和6年(2024年)、圓通寺より悲願の返還が実現した。

令和8年(2026年)には仏像修復師・飯泉太子宗氏の手により、長年の傷みが修復され、四百年の時を超えて往時の威容を取り戻すに至った。

6. 結論:地域文化財としての価値

笠原不動明王立像の歴史は、以下の4段階の歴史的転換を経て現在に至る。

1.-1607年-:笠原不動の成立と、初期の不動信仰。

2. -1662年-:平賀保秀の参籠による、水道水源地としての神格付与。

3. -1843年-:天保の改革による制度上の断絶と、民衆による信仰の秘匿。

4. -2024年〜-:現代における再発見と文化財としての再構築。

この仏像は、単なる美術品ではない。藩主の命により水道を守る「公的守護神」から、廃仏毀釈の嵐の中で民衆が隠し通した「民衆の宝」へと変容した。その過程こそが、本像の最大の価値であり今後、水戸市地域文化財として広く公的に認定され、次の四百年へと語り継がれることを切に願う。

史蹟

笠原水道の歴史

水戸城下町の発展と「命の水」

―徳川頼房から徳川光圀へ受け継がれた笠原水道の歴史―

笠原水源と浴徳泉(『常磐公園攬勝図誌』より)
笠原水源と浴徳泉(『常磐公園攬勝図誌』より)

水戸の城下町の発展を語るうえで、「水」は欠かすことのできない重要なテーマです。城下町の整備、治水、農業用水、そして町人の暮らしを支える飲料水の確保。これらは、江戸時代の水戸藩にとって都市づくりそのものに関わる大きな課題でした。

その歴史を象徴するのが、江戸時代初期に築かれた「備前堀」と、第二代水戸藩主・徳川光圀によって整備された「笠原水道」です。初代藩主・徳川頼房の時代に始まった城下町づくりと水利整備は、光圀へと受け継がれ、やがて日本でも最も古い上水道の一つである笠原水道へと結実しました。

1 頼房による水戸城下町の整備と備前堀

慶長14年(1609)、徳川家康の十一男・徳川頼房が水戸藩の初代藩主となると、水戸城を中心とした本格的な城下町の整備が進められました。

当時の水戸は、那珂川と千波湖に挟まれた台地と、その周辺に広がる低湿地から成る複雑な地形をしていました。なかでも千波湖は現在よりも広く、大雨の際には周辺の低地に水があふれることがあり、治水対策が大きな課題となっていました。

そこで頼房は、関東郡代として治水や新田開発に実績のあった伊奈備前守忠次に命じ、千波湖周辺の水利整備を進めました。慶長15年(1610)に開削されたとされる「備前堀」は、千波湖周辺の治水や農業用水に重要な役割を果たすことになります。さらに、その周辺の湿地の開発・埋立てが進められ、新たな町人地として「下町」が形成されていきました。

しかし、城下町の拡大は新たな問題を生みました。下町周辺はもともと湿地だったため、井戸を掘っても飲料水として適した水を得ることが難しく、住民は日常の飲み水の確保に苦労していたのです。

実際、水戸では笠原水道が完成する以前にも、吉田村のため池から水を引く田町用水などが整備されていました。しかし、城下町の人口増加にともない、安定した飲料水を確保するためには、より抜本的な対策が必要となりました。水戸市の資料にも、1627年(寛永4年)に田町用水が整備されたことが記録されています。

2 頼房から光圀へ――飲料水問題という遺産

寛文元年(1661)、頼房が死去すると、その後を継いで第二代藩主となったのが徳川光圀でした。頼房は水戸城下の基盤整備を進めた藩主であり、光圀もまた父の事業を引き継ぎながら、城下町のさらなる発展に取り組みました。

なかでも重要だったのが、下町の飲料水問題です。水戸城下は「用水の便が悪く」、特に下町の住民は飲料水の確保に苦労していたと伝えられています。そこで光圀は、藩主就任後まもない寛文2年(1662)、町奉行の望月恒隆に水道の設置を命じました。

この事業は、単に水路を掘るだけの工事ではありませんでした。遠く離れた水源から城下まで、水を動力なしで導かなければなりません。そのためには、水源の選定、地形の調査、ルートの設定、標高差の確認など、高度な測量と土木技術が必要でした。

3 笠原を水源に選ぶ

水道建設の調査・設計にあたったのが、平賀保秀です。平賀は水戸周辺の地形や湧水を調査し、笠原不動尊周辺から湧き出る豊富で清らかな水を水源とする計画を立てました。

笠原からの湧水を逆川に沿って導き、千波湖の南岸を経て城下へ向かわせるルートです。この計画の大きな特徴は、ポンプなどの動力を使わず、地形の高低差を利用して水を自然に流す「自然流下」の考え方にあります。

その測量や工事には、久慈郡町屋村、現在の常陸太田市町屋町に住んでいた永田茂衛門・勘衛門親子も関わりました。こうして笠原から藤柄町を経て下町へ水を送る大規模な工事が始まったのです。

4 岩樋・木樋・竹樋――江戸時代の高度な水道技術

笠原水道の大きな特徴は、用途や場所に応じて異なる素材を使い分けたことです。

水源から藤柄町までの本線には「岩樋」が用いられました。岩樋は、底石、左右の側石、蓋石という石材を組み合わせて水路をつくり、それを地中に埋設したものです。使用された石材には、水戸周辺で産出する凝灰質泥岩、いわゆる「神崎石」が使われました。軽く加工しやすいうえ、水に強い性質を持っていたことが知られています。

一方、市街地に入ってからの支線には木樋、さらに各戸へ水を配る部分には竹樋が使われました。つまり、現在の水道と同じように、本線から支線、そして各家庭へと水を分配する仕組みが、江戸時代にすでに構築されていたのです。

さらに工事の途中には、父・頼房の時代に築かれた備前堀を越えるという難所がありました。ここでは銅製の「銅樋」を用いて水路を渡す工法が採用されました。岩樋、銅樋、木樋、竹樋を組み合わせた笠原水道は、当時の土木技術を結集した大規模な都市インフラだったといえます。

5 1663年、笠原水道完成

工事は寛文2年(1662)に始まり、翌寛文3年(1663)に完成しました。全長は約10キロメートル。工事には延べ約2万5千人の人夫が動員されたと伝えられています。

水戸市立図書館のデジタルアーカイブに残る資料では、延長は約1万メートル、動員人数は2万5,014人、工事費は554両3分780文とされています。こうした記録からも、笠原水道が藩を挙げて取り組んだ大工事であったことが分かります。

完成した笠原水道は、日本で18番目に古い上水道とされています。清らかな笠原の湧水が下町へと導かれたことで、飲料水に苦しんでいた町人の生活は大きく改善されました。

これは単なる水道施設の完成ではありませんでした。水戸藩にとって、城下町に住む人々の生活を安定させ、都市としての機能を整える重要な一歩だったのです。

6 「命の水」を守った光圀

光圀は、水道を造るだけでなく、その水源を守ることにも力を注ぎました。笠原水源は、単なる水を取る場所ではなく、清らかな水を生み出す大切な場所として保護されていきました。

水源地には「漱石所」が設けられ、水質を守るため、釣りや肉食などを禁じる規約も定められたとされています。水源を清浄に保つことが、そこから水を受ける町人の生命を守ることにつながると考えられていたのでしょう。笠原水源が長く大切に守られてきた背景には、こうした水への畏敬の念もありました。

その後、笠原水道は何度も修理されました。特に享和2年(1802)には大規模な修理が行われ、これを「享和の大修理」と呼びます。さらに文政9年(1826)には、笠原水道の歴史を後世に伝える「浴徳泉碑」が建立されました。碑文は水戸学を代表する学者・藤田幽谷が撰したもので、現在も水源地に残されています。

7 近代水道へ――270年の歴史を超えて

明治維新によって水戸藩がなくなった後も、笠原水道は地域の人々にとって重要な水道として利用され続けました。しかし、近代になると人口の増加や都市の拡大にともない、江戸時代の水道施設だけでは増大する水需要に対応することが難しくなっていきます。

明治43年(1910)には、笠原水道の土管・岩樋・木樋・竹樋が鉄管に交換され、市営水道となりました。さらに大正13年(1924)には全市水道に向けた調査が始まり、昭和5年(1930)には那珂川を水源とする近代水道の建設が開始されます。そして昭和7年(1932)、芦山浄水場が完成し、水戸市全域への給水が始まりました。

こうして笠原水道は、江戸時代から近代に至るまで長く水戸の人々の暮らしを支えた歴史的な役割を終えることになります。

8 現代に受け継がれる「水」の記憶

現在、笠原水道の水路そのものがかつての姿で使われているわけではありませんが、一部地区では現在もまだ笠原水道の水を使用している事からその歴史的価値は今も失われていないのです。

笠原水源周辺には岩樋などの遺構が復元され、水源地は現在も市民に親しまれています。笠原水源の竜頭栓から出る水は、現在の水道水として管理され、安全に飲用できるよう整備されています。

笠原水道の歴史を振り返ると、そこには水戸という都市がどのように形づくられてきたのかという物語が見えてきます。

初代藩主・徳川頼房は、備前堀の開削などを通じて城下町の治水と開発を進めました。その一方で、発展する下町には飲料水という大きな課題が残されました。その課題に向き合い、父の時代から続く都市整備をさらに進めたのが、第二代藩主・徳川光圀でした。

そして、望月恒隆、平賀保秀、永田勘衛門らの知恵と技術によって、笠原の湧水は約10キロメートル離れた城下町へと導かれました。

笠原水道は、単なる江戸時代の古い水道ではありません。それは、都市をつくるための治水技術、地形を読み解く測量技術、石や木、竹、銅を使い分ける土木技術、そして何よりも「人々の暮らしを支える水を確保する」という為政者と技術者の思いが結集した歴史的遺産です。

水戸の町を歩くとき、備前堀や下町の町並み、そして笠原の湧水をたどることで、約360年前に人々が築いた「命の水」の道筋を今も感じることができます。頼房から光圀へと受け継がれた水への取り組みは、現代の水戸市にも続く、都市と水との深い関わりを象徴する歴史なのです。

史蹟

浴徳泉の碑文について

笠原水道を後世に伝える記念碑

浴徳泉碑(『常磐公園攬勝図誌』より)
浴徳泉碑(『常磐公園攬勝図誌』より)

【浴徳泉の碑】  (出典)水戸市立図書館デジタルアーカイブ https://adeac.jp/mito-lib/texthtml/d900010/mp110001-000010/ht000580

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笠原水道の記念碑として有名な「浴徳泉碑」は笠原水道の水源近く,逆川の西岸に在る。

文政9年(1826)5月の建立で,碑石の高さ1.15メートル幅1.39メートルの自然石である。

浴徳泉の碑(市内笠原町)

この碑石建立の発案は下町の町年寄加藤又衛門堅安ら享和の水道大修理に関係した人びとであった。自分たちの苦労と創設の平賀勘衛門,永田勘衛門らの苦心を重ねあわせての発想であったろう。

碑面の題字「浴徳泉」は当時の藩主斉脩(なりのぶ)(第8代,哀公)の詩句の「今猶浴先君徳」から選び,景山公子(のちの斉昭,第9代藩主,烈公)が隷書体で記したものである。題字下の「浴徳泉記」なる文は彰考館総裁幽谷藤田一正の作で,それを書家としても名のある静巷宇留野弘(水戸藩士,彰考館員)が書いたものである。題字といい浴徳泉の文章といい,また,その書も水戸において当時一流のものであった。加藤又衛門らの胸中,いかばかりであったろうか。

さて,碑文はつぎの通りである。

【現代語訳】

浴徳泉(よくとくせん)は、その水源が水戸城の南、吉田郷の笠原不動坂の下にある。そこには銅竜があってその湧き水を受け、水は竜の口から吐き出されている。坂の左右には四つの泉穴があり、それらがめぐり合って一つに集まる。そこで隠し溝(暗渠)を作ってこれを導いた。

水は地中を通って遠く東北へとうねり流れていき、暗い地下水流は城東の十の町筋へと偏って流れ、至る所に井戸が設けられて、人々がそれを汲み上げることができるようになっている。一万口の人々は、朝夕にこの水の恩恵を受けて飲食(いんしょく)しているのである。

昔、私たちの先君である威公(徳川頼房)がはじめて水戸に封じられた。水戸という城は、南は仙波湖を抱き、北は茨城郡(珂江/那珂川)に臨み、浜田を左に、常磐を右にしている。その地勢は西が高く東が低い。寛永年間の中頃、大いに城壁や堀を修築し、都市計画の規制を拡充された。すなわち、浜田の田んぼを埋め立てて町や里を開き、城の西側にいた商人や職人の民をそこへ移して住まわせ、これを「田町」と名付けた。人々は遠近を問わず、その市場に集まることを望む者が毎日多かった。こうして埃が立ち込め、人家が櫛比(くしひ)して立ち並ぶほどに賑わった。

しかし、その中で唯一の悩みは、土地が痩せて水が濁っており、その味が苦くて悪く、飲むことができないことであった。ある時、吉田の池の水を引いて、民衆の飲食する水を甘く美味しくしようと計画されたが、水の行き届く範囲が広がらなかった。

その後、義公(徳川光圀)が家督を継がれるに及び、先代の遺訓を考え、過去の政治の事例を問い求め、大いに仁政を行われた。寛文3年(1663)、はじめて国(水戸)に赴き、命じて新井(新たな用水路)を作らせた。

その時、下総(しもうさ)の人で平賀保秀(ひらがやすひで)という者がおり、天文や地理の学問に通じていた。威公が彼を召し抱えたものの、まだ役職を命じないうちに威公が薨去(こうきょ)された。そこで、義公は保秀に専らその工事の役目を担当させた。

すなわち、笠原の地を検分すると、冷たくて清らかな泉があり、その甘さは美酒(醴)のようであった。そこで水路を切り開いて、その水の流れを便利にしたのである。この水を導くにあたっては、地勢に良く従って曲がりくねりや直線を吟味し、高低差を測り、大体の要所では鬱蒼と茂る林の脇に沿わせて、その下方に暗溝を作った。そのため、水気は常に潤っており、日照りの年でも涸れることがなかった。あるいは石を積んで溝の底や壁(甃)とし、あるいは木を組んで樋(ひ)とし、蓋をして保護し、その詰まりを掃除して通した。そのため、濁流や汚穢(おえつ)が入り込むことがないようにした。

紺屋町と七軒町の二つの街の間の、仙波湖の下流をまたぐ所に至ると、特に銅製の樋(銅匱)をしつらえてこれを架け渡し、屋根の棟のように高く隆起させた。その長さは六丈六尺(約20メートル)ある。

そもそも、この泉水は笠原を発源とし、東へ過ぎて富沢を流れ、折れて北へ、また転じて東へ向かい、藤柄(ふじがら)に至り、東北へ進んで紺屋街に至り、七軒街を越えてさらに東北へ流れ、第一街から第十街を経て、新町に至って止まる。その水路はおよそ三千七百九十五歩(約6.8キロメートル)に及び、途中から分かれて傍らに流れ出る水はこれに含まれない。

この工事にかかった人員は延べ二万六千人であり、費やした費用はわずか五百五十余両にすぎず、工事は完成を告げた。これこそいわゆる「民衆の利益になるところによってこれを利し、恵みを与えても無駄な出費をさせない」というものであろうか。

その後、公(光圀)はしばしば笠原に至ってその泉をご覧になった。泉の左側には石で腰掛け(漱石所)を作り、時には小隊を率いてその側へ遊びに来ては、そこで詩歌を詠まれた。ある人が「笠原の木を伐採して、開墾して田畑にしたい」と請うたが、公はそれが水源を害することを懸念して許さなかった。百年後の今に至るまで、その言葉どおりになっていないものは一つもない。

ああ、仁君の恩恵はなんと遠くまで行き届いていることよ。東市の父老たちは謹んでその古い史跡を守り、今に至るまでなお詳細にその由来を語り伝えている。

さて、加藤賢安(かとうかたやす/賢安)という者は、最も物事を好んで文雅を愛し、その由来を石に刻みつけて後世長く伝えたいと願っていた。享和年間の中頃、かつて人々と謀り、市を司る役人を通じて(藩に)願い出て、すでに許可を得ていたものの、碑文を記す適当な相手が見つからず、そのために果たせなかった。

ある日、これを藤田一正(ふじたかずまさ)に頼んで、「私は文字を刻む貞石を磨いて待ち続けて二十余年になります。どうか先生、文章を記してください」と言った。一正は「承知した。だが、この泉は名前がない。名付けないわけにはいかないから、あなたはしばらく待ちかねていなさい」と言った。

やがて我が納言公(徳川治紀/あるいは当主)がこの話を聞き、そのために関係する七言近体詩を作られた。公はまだ国(水戸)に赴いたことがなく、親しくその地を訪れたことはなかったが、しかし詩の中ではよくその地形の曲折を言い尽くし、「今なお先君の徳に浴す」という句があった。それに因んで名前を賜り、「浴徳泉」と名付けられた。

公の気高い弟君である景山公子(徳川斉房)が、ために「浴徳泉」の大きな三文字を書し、一正に授けて、これを碑の題額として刻ませることができたのである。

一正かつてこれを古老から聞いた。笠原の泉は、舟翁(しゅうおう)が導いたものであり、義公が実際に彼を用いたのだという。舟翁とはすなわち平賀保秀の号である。保秀は、他国から来た旅の身の臣下でありながら、登用されて功績をあげ、父子が代々民を治める職に抜擢されて、よく地の利を尽くし、禄五百石を食んだ。国の人々は彼を称えて「古今を通じて良き宰相の第一人者である」としている。

そうであれば、この泉を呼んで「舟翁の泉」とすることもまた、できないわけではない。しかしながら、義公がよくその才能を用いなかったならば、たとえ舟翁に大工・夏禹(かう)のような優れた知恵があったとしても、どうしてよくその偉業を成し遂げることができただろうか。

いま公が名前を賜わったのは、特にその美しさを先君の徳に帰したものであり、誠に身に余る適切なご処置であると言える。そして、その文章の才や風雅な趣が、この泉に光輝を放たせているのは、また義公の残された偉大な功績(余烈)である。

いま公の英明のもとで、上下の人々はみな福を受けており、もとより井戸の水が濁って食べられないという患いはない。ただ恨めしく思うのは、家督を継いだのち、まだ国に赴くという命令が下りていないことである。将来、いつの日か国に赴き、威公・義公の政治を大いに修められたならば、その慈悲の雨(膏沢)が降り注いで民の心までもしみじみと潤すことであろう。そうすれば、石に刻んで不朽に伝えるものは、なにもこの浴徳の泉だけにとどまらないであろう。

一正は老いてはいるが、職務は文史(記録や歴史の編纂)にある。こうして筆を執って、(将来の藩主の国入りと善政を)待ち望むものである。

文政九年(1826年)歳次丙戌(ひのえいぬ)夏五月 彰考館国史総裁 藤田一正 記 門人 宇留野弘書

原文(碑文)・読み下しを表示
碑文(原文)

浴徳泉者其源出于水戸城之南吉田郷笠原不動阪下有銅龍受其瀑水水

自龍口吐阪之左右有泉四穴匯而会於一為匿溝而導之水由地中行逶迤

東北暗流偏于城東十街之市所在為井可用汲萬口之民朝夕資以飲食焉

昔我 先君威公始封水戸水戸之為城也南抱仙湖北踞珂江左濱田右常

磐其地勢西高而東下寛永中大脩郛郭増廣規制廼塡濱田之田以開廛里

徙商賈之民在城西者以實焉謂之田町民無遠近顚蔵其市者日衆紅塵四

合煙火比屋而獨患土薄水濁其味苦悪不可以飲或嘗謀引吉田之池水以

甘民食而所及不廣及 義公襲封考遺訓咨故實大行仁政寛文三年始就

國命為新井時有下総人平賀保秀者通天文地理之學 威公聘之未及命

職而 公薨於是使保秀専掌其工役乃相笠原之地有冽寒泉其甘如醴䟽

鑿以利其水道其導之也善因地勢審曲直量高低大要傍林薄蓊鬱而為陰

溝其下故水気常潤旱歲不涸或以石為甃或以木為楲謹其盖蔵通其壅塞

故不使濁流汚穢入焉至於紺屋七軒両街之間跨仙湖下流之處則特設銅

匱以架之如棟之隆其長六丈有六尺盖泉水発源笠原東過富澤折而北又

轉而東至藤柄東北至紺屋街踰七軒街又東北流自第一街歴第十街至新

町而止其水道凡三千七百九十有五歩而厮流旁出則不與焉用夫二萬六

千人費金僅五百五十餘兩而工役告成盖所謂因民之所利而利之恵而不

費者也歟其後 公屢至笠原觀其泉泉之左為漱石所時或小隊出遊觴咏

其側人或有請伐笠原之木以為墾田者 公慮其害水源不許百年之後其

言莫不皆験嗚呼 仁君之澤遠矣東市父老謹守其故迹至今猶能道其詳

而加藤賢安者最好事愛文雅欲記其來由勒石以傳久遠享和中嘗與衆謀

因市司之吏以請既蒙兪允而記事之文未獲所託是以不果一日請之藤田

一正曰小人磨襲貞石以待者二十餘年願先生有記一正曰諾哉然斯泉無

名不可以不命汝姑待之既而我 納言公聞之為賦七言近體詩 公未嘗

就國親至其地而詩中能盡其曲折有如今猶浴 先君徳之句因賜名曰浴

徳泉 公之貴介弟景山公子為書浴徳泉三大字以授一正俾獲刻之題額

一正嘗聞之故老笠原之泉舟翁所導而 義公實使之舟翁即保秀之號也

保秀以羈旅之臣試用有功父子相継擢牧民之職能盡地力食祿五百石邦

人稱為古今良宰第一則斯泉也呼為舟翁泉亦不為不可雖然非 義公之

能用其材則使舟翁有神禹之智安能底其績哉 今公之賜名特歸美于先

君之徳誠為得体而其文采風流使斯泉生光輝盖亦 義公之余烈矣今公

之明上下受福固莫有井渫不食之患但恨襲封之後未有就國之命他日就

國大脩 威 義之政膏澤之降浹洽於民心則其勒石垂不朽者寧獨浴徳

之泉云乎哉一正雖老矣職在文史執筆以竢

文政九年歳在丙戌夏五月

彰考館国史摠裁藤田一正記

門人宇留野弘書

繁をいとわず,次に読み下し文をつけよう。

読み下し

浴徳泉はその源,水戸城の南,吉田の郷,笠原不動の坂下に出づ。銅竜ありてその瀑水を受け,水,竜口より吐く。坂の左右に泉四穴あり。めぐりて一に会す。匿溝をなしてこれを導く。水,地中に由りて行く。透迤として東北し,暗流,城東十街の市に偏し,所在,井をなし,もって汲むべからしむ。万口の民,朝夕,資してもって飲食す。昔,わが先君威公はじめて水戸に封ぜられる。水戸の城たるや,南は仙湖を抱き,北は珂江に踞し,浜田を左にし,常磐を右にす。その地勢,西は高くして東は下る。寛永中,大いに郛郭を脩し,規制を増広す。即ち,浜田の田を塡じ,もって廛里を開き,商賈の民,城西に在る者を移してもって満たす。これを田町という。民,遠近となく,その市に蔵せんことを願う者,日に多し。紅塵四合し,烟火比屋す。而してひとり,土薄く水濁り,その味,苦悪にしてもって飲むべからざるを患う。あるいは嘗って吉田の池水を引き,もって民食を甘せんことを謀る。しかも及ぶところ広からず。義公の封を襲ぐに及びて,遺訓を考え,故実を問ひ,大いに仁政を行う。寛文3年,はじめて国に就き,命じて新井を為しむ。時に下総の人平賀保秀という者あり。天文地理の学に通ぜり。威公,これを聘し,未だ職を命ずるに及ばず。而して公薨す。是に於て保秀をして専らその工役を掌らしむ。即ち,笠原の地を相するに冽たる寒泉あり。その甘さ,醴の如し。疏鑿して以てその水道に利す。そのこれを導くや,よく地勢に因りて曲直を審らかにし,高低を量り,大要,林薄蓊欝たるに傍びて,陰溝その下になす。故に水気常に潤ひ,旱歳にも涸れず。或は石をもって甃となし,或は木をもって楲となし,その蓋蔵を謹み,その壅塞を通ず。故に濁流汚穢をして入らしめず。紺屋七軒町両街之間において,仙湖の下流に跨るの所に至れば,すなわち特に銅匱を設けてもってこれに架し,棟の隆きが如くす。その長さ六丈有六尺。蓋し,泉水は源を笠原に発し,東して富沢をすぎ,折して北し,又,転じて東し,藤柄に至り,東北して紺屋街に至り,七軒街を踰えてまた東北流して第一街より第十街を歴,新町に至りて止む。その水道およそ三千七百九十有五歩。厮流傍出は則ち与からず。夫を用ふること二万六千人。金を費やすこと僅かに五百五十余両,しかして工役成るを告げぬ。けだしいわゆる民の利する所に因ってこれを利し,恵みて費やさざる者か。その後,公,しばしば笠原に至り,その泉を観る。泉の左に漱石所をつくり,時に或は小隊出遊してその側に觴咏す。人或は笠原の木を伐り,もって墾田となさんことを請う。公,その水源を害せんことを慮りて許さず。百年の後,その言,皆,験あらざるはなし。ああ,仁君の澤,遠いかな。東市の父老,謹んでその故迹を守り,今に至るまで,なおよくその詳をいう。而して加藤賢安というもの,最も事を好みて文雅を愛し,その来由を記し石に勒してもって久遠に伝えんと欲す。享和中,嘗って衆と謀り,司市之吏によりてもって請う。すでに兪允を蒙れども記事の文,いまだ託する所を得ず。是をもって果さず。一日,これを藤田一正に請うて曰く,小人貞石を磨礱してもって待つこと二十余年,願はくば先生,記すことあれと。一正曰く諾と。然れどもこの泉,名無し。もって命ぜざるべからず。汝,しばらくこれを待てと。既にして我が納言公これを聞きて,ために七言の近体詩を賦す。公,未だ嘗って国に就き,親しくその地に至らず。しかも詩中よくその曲折をつくし,如今なお先君の徳に浴すの句あり。因って名を賜うて浴徳泉という。公の貴き介弟景山公子,為に浴徳泉の三大字を書し,もって一正に授け,これを題額に刻するを得せしむ。一正嘗ってこれを故老に聞く。笠原の泉は舟翁の導く所にして,義公実にこれを使わむとす。舟翁は即ち保秀の号なり。保秀,覊旅の臣をもって試用し功あり。父子相継ぎ,牧民の職に擢でられ,よく地力を尽し,祿五百石を食む。邦人称して古今良宰の第一となす。則ちこの泉や呼んで舟翁の泉となすもまた不可となさず。然りと雖も,義公のよくその材を用ふるに非ずんば則ち舟翁をして神属の智あらしむとも,いずくんぞよくその績をいたさんや。今公の名を賜ふ,特に美を先君の徳に帰す。誠に體を得たりとなす。しかしてその文采風流,この泉をして光輝を生ぜしむ。蓋しまた義公の余烈たり。今公の明,上下,福を受け,もとより井渫食せざるの患あることなし。ただ恨むらくは封を襲ぎたるののち,未だ国に就くの命あらざるを。他日,国に就きて,大いに威義の政を脩めば膏沢これ降りて民心に浹洽せん。則ちその石に勒し,不朽に垂るるはなんぞひとり浴徳の泉のみといわんや。一正老いたりといえども職文史にあり。筆を執りてもっと竢たむ。

◇幽谷の浴徳泉記は笠原水道の歴史,建碑の経緯,浴徳泉命名の由来等を簡潔に述べ,しかもあます所がない。なお,読み下しは菊池謙二郎編『幽谷全集』の訓点に従った。(原文のまま)

史蹟

漱石所址

光圀公が営んだ水源の茶亭

漱石所(『常磐公園攬勝図誌』より)
漱石所(『常磐公園攬勝図誌』より)

水戸城下の南端、逆川が刻んだ河谷の裾に位置する笠原の地は、豊富な地下水脈と崖下からの澄んだ湧水を擁し、江戸時代初期から水戸藩の政治・文化・水道インフラの重要拠点として位置づけられてきた。この笠原水源のすぐ側に、水戸藩第2代藩主・徳川光圀によって設けられた茶亭が「漱石所(そうせきしょ)」である。

漱石所は単なる藩主の個人的な休養施設(別荘)にとどまらず、水戸城下の飲料水を支える「笠原水道(清水道)」の環境保全拠点、家臣や文人を招く文化サロン、さらには藩の治世や民政思想を反映した多機能な空間であった。本稿では、最新の史料的知見に基づき、漱石所の設置時期とその史的意義、地域の護持を担った地域管理者(銀河寺不動院)の選定理由と役割、そして18世紀末から19世紀前半にかけての解体・廃絶に至る経緯を詳述する。

1. 漱石所の設置時期と史的意義の再検討

(1) 設置時期の史料的検証(寛文5年伝承と天和3年確証)

漱石所の創建年代については、従来、寛文5年(1665年)とする後世の伝承が広く知られてきた。これは寛文3年(1663年)の笠原水道(清水道)開削・完成に続く水源整備の一環として語られてきたものである。

しかし、史料学的な厳密さをもって検証すると、『常磐公園攬勝図誌』等に収録された「漱石所規約」の本文には「天和三年癸亥之夏」の年記が明記されている。天和3年(1683年)の段階で明確な規約が制定されているということは、遅くともこの天和3年の夏には、施設としての漱石所が確実に成立・稼働していたことを意味する。したがって、漱石所の創建時期については「寛文年間にその起源を求めつつも、史料的に確実な成立が確認できるのは天和3年(1683年)である」とするのが最も妥当な歴史的評価となる。

(2) 「漱石所」の命名由来と思想的意味

「漱石所」という名称は、中国の古典『世説新語』に記された故事「漱石枕流(石に漱ぎ流に枕す)」に由来する。「漱石枕流」は本来、言葉の言い誤りを負け惜しみで理屈づける態度を指す言葉であるが、光圀はこれを自嘲気味かつ風雅に用い、「自然の清流と巨木に囲まれたこの地で、雑俗を離れて精神を洗練させる場所」という意味を重ね合わせた。

光圀の治世において、漱石所の設置には、厳しい藩政指揮の合間に自然と対峙し、風流を通じて自己の精神を養うという「文人政治家」としての美意識が強く投影されている。

(3) 漱石所が果たした多角的な意義

漱石所は、主に以下の3つの史的意義を持っていた。

文化的交流と風流の場(曲水の宴) 漱石所とその前面を流れる清流を生かし、光圀は家臣や文人を招いて「曲水の宴」を主催した。流れる水に盃を浮かべ、自分の前に盃が流れてくる間に歌を詠むという王朝風の風雅な儀礼を行うことで、文化的な連帯感を高めた。

家臣の慰労・主従の連帯強化と敬老精神 光圀はここで家臣らに酒食を振る舞い、日頃の労をねぎらった。光圀の民政思想の根幹には「孝悌」や「敬老」があり、藩政を支える老臣や地域の長老らを招いて酒席を設けるなど、身分を超えた民政の安定と主従の精神的結合を図る空間としても機能した。

水源環境保全の監察・管理拠点 天和3年(1683年)制定の『漱石所規約』では、水源周辺および流路における魚類の捕獲(釣り)を禁じ、さらに不動堂付近での肉食を厳しく制限するなど、「殺生禁断」と「清浄保持」が明文化された。漱石所は藩主や役人が定期的に訪れて水源の状況を直接監察する拠点としての性格を兼ね備えていた。

2. 地域管理者の選定と管理体制

(1) 銀河寺不動院の選定経緯

水戸藩は漱石所および笠原水源の日常的な維持管理、警備、そして神聖性の護持を、自藩の公人に任せるだけでなく、現地の宗教勢力に委任する方式をとった。その管理者に抜擢されたのが、「笠原山銀河寺不動院」(天台宗薬王院直末)である。

『水府地理温故録』には、「漱石所と不動堂の管理を銀河寺に預けた」旨が明記されている。銀河寺が選定された背景には、以下の理由が存在する。

地理的立地と歴史的霊場 銀河寺不動院は、水源地の逆川を挟んだ対岸(北側・吉田台地側の崖上)に位置していた。また、水源背後の山は古くから「不動山」と呼ばれていた。

水道開削時の祈願所 寛文3年(1663年)の水道開削の際、町奉行・平賀保秀は事業成功を祈願して銀河寺不動堂に一昼夜参籠し、その坂下の湧水を源流と定めた。つまり、銀河寺は笠原水道の発祥に深く関与した祈願所であった。

寛文の寺社整理における存続 光圀が寛文年間(1665〜1667年)に断行した藩内約半数の寺院を滅ぼす大規模な「寺社整理」において、銀河寺は由緒正しい薬王院直末として破却を免れ、奉安する不動尊(不動堂)が存在し水道水源と漱石所の管理という最重要インフラの護持を託された。

(2) 水源不動の再編と護持体制

銀河寺は藩命を受け、漱石所の清掃・建物の管理、水源地への不審者の立ち入り制限、ならびに規約に基づく魚釣・肉食等の殺生禁断の取り締まりを担った。

貞享5年(1688年)正月には、水道開削から25年目を記念して石造の手水盤(「貞享五年正月」銘)が奉納された。これと前後して、逆川の対岸にあった不動堂が湧水口の坂上へと曳家(移築)された。これにより湧水口を直接護持する「笠原水源不動尊」として再編され、「対岸の銀河寺本院—水源地の不動堂—漱石所」という堅固な管理体制が完成した。

江戸時代中期(寛政年間)には、銀河寺住職の古学庵仏兮(こがくあん ぶっけい)が松尾芭蕉の門流として多くの俳人を招き、漱石所周辺は水戸における俳諧文化の一大拠点としての賑わいも見せた。

3. 漱石所の廃絶・解体に至る経緯と編纂史料

(1) 廃絶時期の史料的検証(享和〜文化年間を中心とする推定)

漱石所の解体・廃絶については、明確な廃止年を記した公的史料は未確認であるものの、近年の史料比較によってその時期が絞り込まれている。

文政9年(1826年)『浴徳泉碑』の記述 藤田幽谷らが関わった文政9年の「浴徳泉碑(よくとくせんのひ)」においては、漱石所は既に過去の遺構を意味する「故迹(こせき)」として記されている。このことから、1820年代半ばの時点で建物としての漱石所は既に姿を消していたことが確定する。

明治18年(1885年)『常磐公園攬勝図誌』の記述 同書においても明確に「漱石所の跡」と記されており、幕末から明治に至るまで再建されることはなかった。

享和〜文化年間(1801〜1818年)前後の廃絶推定 18世紀後半までの俳諧活動や水源管理の記録と、1820年代の「故迹」化という記述を突き合わせると、茶亭としての漱石所が実際に解体・廃絶された時期は18世紀末から19世紀前半、特に享和〜文化年間(1801〜1818年)前後であった可能性が極めて高いと推定される。

(2) 茨城県立歴史館所蔵『清水道并漱石所記事』の意義

漱石所の変遷を解明する上で極めて重要な史料が、茨城県立歴史館に所蔵されている「清水道并漱石所記事(せいすいどうならびにそうせきしょきじ)」である。これは文政8年(1825年)に記された史料であり、題名に直接「漱石所記事」と掲げられている。

文政8年といえば、翌文政9年の『浴徳泉碑』で「故迹」とされる直前、あるいは廃絶後の総括が行われていた時期にあたる。この史料の存在は、19世紀前半の藩政(文政期)において、笠原水道の全般的な補修・絵図作成(文政7年の「笠原水道絵図」等)と並行し、過去の漱石所の由緒や管轄・歴史的経緯を藩公式の記録として再整理・編纂する動きが存在したことを示している。

(3) 解体・衰退の歴史的背景

漱石所が享和〜文化年間頃に解体・廃絶へ向かった背景には、以下の藩政構造の変化が存在する。

財政難と実用主義への転換 18世紀末以降、水戸藩の財政は逼迫を極め、維持費を要する藩主の風雅な茶亭や遊興施設の保全は困難となった。さらに藩政の関心が「文雅・風流」から「実学・軍備・農村復興」へとシフトしたことで、漱石所の建造物としての維持優先度は低下した。

建物の老朽化と自然淘汰 天和年間(1680年代)の成立から100年以上が経過し、木造建築である漱石所の老朽化が限界に達していた。大規模な修復が行われないまま、水源の護持機能のみが不動堂(水源不動)や行政機構(水道奉行・町奉行)へ集約され、茶亭そのものは自然解体・撤去されたと考えられる。

後続する天保の廃仏毀釈(1843年) 漱石所が「故迹」となった後、管理を担っていた笠原山銀河寺不動院も、天保14年(1843年)の徳川斉昭による天保の廃仏毀釈(修祓)によって破却・廃寺となった。これにより、江戸初期から続いた「漱石所・銀河寺・笠原水道」の歴史的トライアングルは完全に解体されることとなった。

その後の管理

廃仏希釈後に崇敬者によって弘化4年(1847)不動堂内に身替り不動として、倶利伽羅龍の扁額が奉納され、引き続き笠原・米澤地区の檀家たちによって管理されてきた。しかし昭和50年(1975)に水戸神社・笠原不動尊の再建が切っ掛けとなり昭和63年(1988)に管理者から退いた。

また銀河寺本院は明治13年(1880)の火災による焼失まで残り、その後再建されず無住の寺として共同墓地だけが存在している。

4. 史跡の現状と歴史的評価

現在、漱石所の建物や銀河寺不動院の伽藍は地上から姿を消しているが、その痕跡と記憶は今日の笠原の地に遺されている。

漱石所跡と史跡環境 現在の笠原水源・逆川緑地内(水戸市笠原町)には「漱石所跡」の石碑が建立されており、かつて光圀が曲水の宴を催し、水源保全を定めた歴史を伝えている。

笠原水源と水源不動 笠原水道の発祥地である笠原水源は現在も豊富な湧水を保持している。貞享5年(1688年)の刻銘を持つ石造手水盤は現地に留まり、昭和50年(1975年)3月には有志の手によって「笠原不動尊(水源不動)」のお堂が再建された。かつて銀河寺と水戸藩が担った水源護持の精神は、地元の保存活動に受け継がれている。

徳川光圀によって設けられた「漱石所」は、寛文5年の伝承を背景にしつつも、天和3年(1683年)の規約制定によって史料的に成立が確定する、水戸藩初期の文政・インフラ・文化の複合拠点であった。

薬王院直末の笠原山銀河寺不動院を管理者として水源の清浄と環境を保全したものの、時代の流れとともにその役割を終え、18世紀末から19世紀前半(享和〜文化年間前後)には茶亭として廃絶し、文政8年の『清水道并漱石所記事』や文政9年の『浴徳泉碑』に見られるように「過去の由緒(故迹)」として記録されるに至った。

史料によって裏付けられたその変遷は、笠原水道という近代上水道の前身を守り抜いた水戸藩の環境管理政策と、時代ごとの文化的変容を鮮明に物語っている。

曲水の宴(『常磐公園攬勝図誌』より)
曲水の宴(『常磐公園攬勝図誌』より)
「漱石所規約」原文・現代語訳を表示
漱石所規約(原文)

一 禁不動堂上食肉乱行 一 禁漁釣前池 一 禁携美味旨酒耽逸樂及夜隂 一 禁坐論先後竸争便地而至喧囂 一 禁此泉之流盥漱投葷肉唯浮觴浸瓜菓不在   此限  天和三年癸亥之夏

現代語訳

一、堂の上で肉を食べたり、乱暴な振る舞いをしたりすることを禁ずる。

一、前の池で魚を捕ったり、釣りをしたりすることを禁ずる。

一、美味な料理や酒を持ち込んで、遊興にふけったり、夜遅くまで過ごしたりすることを禁ずる。

一、座席の順序をめぐって先後を争い、場所取りをして騒ぎ立てることを禁ずる。

一、この泉の流れで手や口を洗ったり、葷肉(魚肉・獣肉などの生臭い肉類)を投げ入れたりすることを禁ずる。ただし、杯を水に浮かべたり、瓜や果物を水に浸したりすることは、この禁令の対象外とする。

天和三年癸亥の夏(天和3年・1683年)