光圀公と医の仁術

「医者に行けない民を救いたい」── 光圀公の願いは、西山荘の薬草園から日本最古の家庭医学書『救民妙薬』、水戸藩の名薬「司命丸」へと受け継がれました。

読み物

『救民妙薬』について

日本初の家庭向け医学書

『救民妙薬(きゅうみんみょうやく)』は、江戸時代初期の元禄6年(1693年)に、水戸藩二代藩主・徳川光圀(水戸黄門)の命によって編纂された日本初の家庭向け医学書です。

医者の治療を受けられない庶民のため、野山の草木など手に入りやすい材料を使った治療法や健康法が、庶民にも分かりやすい言葉でまとめられています。編纂したのは常陸国水戸藩医・穂積甫庵宗与(ほづみ ほあん そうよ)でした。

序文(現代語訳)

主君(徳川光圀公)が、身分の低い民の尊い命を育もうと思われてのことである。山奥や田舎の貧しい地域には、優れた医師もおらず、薬もない。一般の領民たちが病気になった時は、ただ自力で回復するのを待つほかない。……そこで、手軽に手に入る簡単な処方を集め、それぞれの病気に対して、その土地土地で簡単に手に入れることができる処方(薬方)を三百九十七種類編集し、書名を『救民妙薬』と名付けた。これを山奥や田舎に暮らす人々へ広く分け与え、どうか人々を救う一助となることを切に願うものである。

── 元禄六年(1693年) 常陸国 水戸藩医 穂積甫庵宗与 編纂

元禄8年(1695年)には続編も出版され、初版よりもさらに分かりやすい文体に編集されました。

読み物

印籠に込められた至高の仁術 ── 水戸藩の名薬「司命丸」と高倉家

黄門様の印籠について

水戸藩の名薬「司命丸」の引札(広告)
「司命丸」引札(当時の広告)

テレビドラマ『水戸黄門』のクライマックス ── 格さんが「この印籠が目に入らぬか!」と葵の御紋を突きつける、あの名場面。権威の象徴として描かれる印籠ですが、本来の「印籠」とは、中に薬を入れて持ち歩くための小さな携帯用の薬入れでした。

光圀公は「医者に行けない貧しい領民を救いたい」という一心から、身近な薬草の効能をまとめた日本最古の家庭医学書『救民妙薬』を編纂しました。その「民の命を救う」という精神は光圀公の死後も水戸藩の医師や学者たちに受け継がれ、江戸時代後期、ついに究極の和漢薬「司命丸(しめいがん)」として結実します。

「司命」とは人間の寿命を司る神のこと。「病に苦しむ人々の命を救い、寿命を延ばす」という、黄門様が掲げた「仁術(じんじゅつ)」の理想が込められた名前でした。

明治の夜明けと「司命丸」の一般開業

明治維新で水戸藩が幕を閉じると、藩の庇護を失った司命丸は歴史から消えかけます。この名薬を民間の薬として広く世に普及させたのが、水戸市河和田(かわわだ)の地に根を下ろした高倉家の人々でした。風邪や腹痛などに効く司命丸は「家庭の守り神」として、茨城県内だけでなく全国へと名声を轟かせました。

河和田町に遺る「二つの碑」

水戸市河和田町には、高倉家の功績を伝える二つの記念碑が残されています。一つは「司命丸開業百年祭」の碑。もう一つは屋敷前に立つ「高倉長八郎・信太郎父子事績頌徳碑」です。昭和45年(1970年)建立のこの頌徳碑の題字は、当時の内閣総理大臣・佐藤栄作の直筆による「愛国」の二文字。撰文は水戸学研究の第一人者・文学博士 肥後和男が執筆しました。

高倉家にとって司命丸の製造は単なるビジネスではなく、光圀公が西山荘の薬草園で抱いた「民を愛する心」を現代に再現する務めでした。ドラマの印籠から取り出される薬の輝きは、時を超えて河和田の地で、本物の「郷土愛」へと昇華したのです。

製作中

百樹園・百色山と西山荘「薬草園」の関係

光圀公が育んだ薬草の庭

西山荘全景(昭和55年撮影)
西山荘全景(昭和55年撮影)

『救民妙薬』の薬草と深く関わる「百樹園」および「百色山(西山荘)」内の薬草園との関係について、原稿を準備中です。資料が揃い次第、このセクションに掲載します。

文化と人物 詳解

水戸黄門ゆかりの文化と人物について、読み物としてご紹介します。

読み物

水戸黄門漫遊記について

講談・速記本から国民的英傑へ

明治の世、国立国会図書館デジタルコレクションの奥付を繰れば、そこには明治三十年十一月という文字がひっそりと刻まれている。

田辺南麟が語り、大河内政之助がその筆先にのせて紙上に定着させた『水戸黄門全国漫遊記(小説三十六花撰 第2号)』。この一冊の速記本こそが、実在の史実たる「水戸光圀」という高潔な歴史上の偉人を脱ぎ捨て、後世の日本人が愛してやまない「天下の副軍監・水戸黄門」を決定的に誕生させ、現在へと続く一大系譜の最初の一滴となった文脈である。

そもそも、江戸期における水戸光圀という存在は、大日本史の編纂に生涯を捧げた「義公」としての政治家であり、あるいは儒学の深淵に遊ぶ知識人として語られるのが常であった。なるほど、江戸末期から明治初頭にかけても、光圀の名を冠した講談や実録風の講釈は存在した。しかし、それらはあくまで史実の断片をなぞるか、さもなくば一部の演芸好きの耳を密やかに愉しませる局所的な娯楽に過ぎなかったのである。

その潮流を一変させたのが、明治の世に咲いた「速記本」というメディアの革新であり、田辺南麟という類まれなる講釈師の口演であった。

南麟が高座に上がり、叩き釈台を「トン」と叩く。その心地よいリズムに乗せて語られたのは、かつての威厳に満ちた徳川光圀ではない。頭巾をかぶり、竹の杖を突き、名もなき市井の百姓や町人に混じって街道を歩む、どこか親しみやすくも眼光紙背に徹した一老人の姿であった。さらに南麟は、光圀の傍らにふたりの若者を配した。文武に長けた佐々木助三郎と、質実剛健な渥美格之進――いまや日本人のDNAにまで刻まれた「助さん・格さん」という絶妙な配置は、南麟の口から発せられた講談の熱量によって、はじめて生き生きとした生命を与えられたのである。

街道筋の旅籠で起きる理不尽な事件、悪徳商人や腐敗した代官の暴挙。絶体絶命の危機に瀕した庶民の前に、突如として差し出される印籠の影。抑圧された民衆の感情を一気に解き放つこのカタルシスは、南麟の鮮やかな弁舌によって極限まで高められ、聴衆を狂喜させた。

そして、その高座の興奮は一瞬の幻影として消え去ることを拒んだ。大河内政之助の速記術によって文字として書き留められた講談は、明治三十年十一月、上田屋から『水戸黄門全国漫遊記』という一冊の印刷物となって世に放たれたのである。

活字となった南麟の物語は、日本全国の書肆や街頭の書棚を埋め尽くした。電信や鉄道が全国を網の目のように結び始めていた明治の世において、この本は驚異的な速度で普及していった。それまで限られた講場に足を運ばねば聴くことのできなかった物語が、紙面を通じて一卵性双生児のように日本中の家庭へと伝播していったのである。人々は燈火のもとでページをめくり、印籠の威力に胸を躍らせ、黄門様の世直しに喝采を送った。

この明治三十年の『水戸黄門全国漫遊記』の大ヒットこそが、水戸黄門というキャラクターを一講釈師の持ちネタから「国民的英傑」へと押し上げた真の起爆剤であった。

後にこの物語の系譜は、大正の八千代文庫をはじめとする幾多の再販・連作本へ、さらには大衆小説、そして無声映画からトーキーへと移り変わる銀幕の世界へと受け継がれていく。そして昭和の高度経済成長期、メディアの主役が映画から茶の間のテレビジョンへと移行したとき、この伝統ある「漫遊記」はかつてない黄金期を迎えることとなる。

ナショナル劇場をはじめとするTV時代劇として茶の間に登場した「水戸黄門」は、南麟が講談で確立したあの不変のフォーマットをそのまま受け継ぎ、さらに洗練させた。東野英治郎をはじめとする歴代の黄門様が響かせる高らかな高笑い、助さん・格さんの殺陣、風車の弥七やうっかり八兵衛といった魅力的な道中連れ、そして終盤で響き渡る「この紋所が目に入らぬか」の一言。それは単なる娯楽番組の枠を超え、毎週月曜の夜に家族全員が居間に集まり、変わらぬ正義の勝利に胸を撫でおろすという、日本の現代社会における新たな「国民的儀式」となったのである。

白黒からカラーへ、講談の高座から速記本、そしてブラウン管から液晶画面へ。時代と共に物語を伝える媒体はその姿を大きく変えていった。しかし、どれほど技術が進化し、人々の生活様式が変わろうとも、そこに貫かれている魂はただひとつ。明治三十年十一月、田辺南麟という一人の講釈師が扇子を叩き、民衆の歓声を浴びながら紡ぎ出した「弱きを助け、悪を挫く」という爽快な物語の熱量に他ならない。

一枚の印籠に秘められた正義の物語は、明治の速記本という文明の利器を得て産声を上げ、時を超えてテレビ時代の茶の間で満開の花を咲かせた。田辺南麟が灯した講壇の火は、今なお日本のエンターテインメントの底流で、失われることのない輝きを放ち続けている。

読み物

黄門様と儒医 井上玄桐について

光圀の素顔を伝えた侍医

井上玄桐(いのうえ げんとう)の来歴と業績

1. 来歴:京都での修業から水戸藩仕官へ

出自と医学の修業: 京都の出身で、はじめは寺井玄東と称しました。当時、日本の医学界の主流であった曲直瀬(まなせ)流の門を叩き、医術を学びました。

玄桐が直接師事したのは、二代目・曲直瀬玄朔(げんさく)をはじめとする、曲直瀬流(啓迪院)を継承した人物たちであると考えられます。

当時の最高峰の医学知識と技術を身につけ、医師としての素養を確立しました。

2.徳川光圀への仕官: 天和2年(1682)

その優秀な学識と医術を認められ、水戸藩主・徳川光圀に召し抱えられました。光圀からの信頼は非常に厚く、公私にわたり深く交流しました。

3.晩年:元禄13年(1700)

光圀が没すると職を辞し、故郷である京都に戻りました。元禄15年に同地で死去しました。号は「挹翠(ゆうすい)」と称しました。

4. 主な業績と歴史的価値

『玄桐筆記』の執筆(1701年成立)は 光圀の没後、京都に退隠した玄桐が、光圀の言行を直に聞き取って記録した回想録です。これが彼の最大の業績であり、歴史的功績です。

公式記録にない「名君の実像」の保存『大日本史』などの公的な藩の編纂書には記録されない、光圀の人間味あふれる素顔や慈悲深いエピソードを後世に残しました。

若年期の放蕩と悔いや暴れん坊であった若き日の光圀(「鶴殺しの長作」の逸話など)が、いかにして過去の行動を悔い改め、名君へと成長していったかという実像を赤裸々に伝えています。

慈悲とリーダーシップの記録として、罪人や身分の低い者に対しても公平にして寛大な措置や、組織のリーダーとしての深い配慮・心得など、彼らの強い信頼関係があったからこそ引き出せた生きた対話が詳細に記されています。

井上玄桐は、「曲直瀬流の確かな医学背景」を持ちつつ、水戸藩の侍医・側近として光圀に深く寄り添った人物です。彼の残した『玄桐筆記』は、単なる主君の伝記にとどまらず、公式の歴史からこぼれ落ちてしまう「光圀の人間味や統治者としての本質」を現代に伝える、第一級の歴史的史料となっています。

読み物

都々逸坊扇歌について

都々逸を生んだ半眼の天才

天保の飢饉という名の人災が、日本の風土を根底から腐らせていた時代の話である。常陸国久慈郡磯部村の重苦しい空の下、一人の医師が蘭学書と向き合っていた。男の名は岡玄作。彼は学問の真理を探究する者であったが、その理性の光は冷徹を極め、血肉の通う我が子の命さえも、一個の観察標本としてしか見ていなかったのかもしれない。

飢えと不衛生が全国を席巻する中、赤痢や麻疹、そして恐ろしい疱瘡(天然痘)が猛威を振るっていた。玄作はある日、手に入れた蘭学書の中に異様な記述を見出す。「疱瘡の患者に青魚を与うれば、その病、極まりて死に至る」。その真偽を確かめんとする狂気的な知的好奇心は、事もあろうに高熱にうなされる実の息子二人へと向けられた。

長男には鯖を、二男の福次郎――のちの扇歌には鰯を。

食卓に並べられた青魚の皿が、兄弟の運命を決定づける地獄への引き金となった。青魚の毒が回った長男は、高熱の中で両の瞳から光を失い、呻き苦しんだ末に息絶えた。一方、一命を取り留めた福次郎もまた、右眼の視力を完全に奪われ、左眼もかろうじて光を感じる程度の「半眼」という重い障害を負うこととなった。ノートに無機質な観察記録をつけ終えた玄作にとって、傷物となった二男はもはや不要の存在であった。

片方の視界を永遠の闇に閉ざされた少年は、間もなく家を追われ、他家への奉公へと出される。半眼の身ではまともな農作業も職人の修行も叶わない。世間の冷ややかな嘲笑と差別に晒される日々の中で、福次郎の心には実父への激しい怨念と、死んだ兄への哀悼、そして世の理不尽に対する深い失望が黒々と澱のように溜まっていった。

だが、暗闇の中で生きていくことを強いられた福次郎には、天より授かったたった一つの武器があった。生まれついての類稀なる美声と、圧倒的な音感である。

「この半目の身体で生き抜くには、芸を売るしかない」

福次郎は三味線ひとつを背負い、泥水をすするような気持ちで諸国巡業の修行旅へと身を投じた。北へ南へ、足が棒になるまで歩く旅路。旅芸人の唄う街頭の歌、船頭の口ずさむ舟唄、各地に伝わる古い民謡や流行歌……。福次郎はすさまじい執念でそれらを聴き取り、自らの体内に吸い上げていった。

昼間の光が眩しすぎる半目の眼を細め、三味線の糸を叩くように弾く。彼の胸の中で、各地の民謡の旋律と自らの血の滲むような情念が混ざり合い、研ぎ澄まされていった。そうして削ぎ落とされ、七・七・七・五という完璧な音数律へと昇華されたもの――それこそが、のちに江戸の町を熱狂させる「都々逸」の誕生であった。彼が編み出した旋律が、単なる色恋や軽妙な洒脱にとどまらず、どこか影があり、人間の哀しみや世の不条理を深く抉る「狂歌」と評された真因は、まさにこの凄惨極まる生い立ちの中にあったのである。

やがて江戸へ上り、「都々逸坊扇歌」と名を改めた彼は、寄席の高座に立つや否や爆発的な人気を博した。あまりの人気に周囲の寄席から客が消えたと言われ、「八丁あらし」の異名をとるまでになる。

「たんと売れても売れない日でも 同じ機嫌の風車」

「売れようが売れまいが、俺は自らの風で回るだけだ」という投げやりな粋。その裏に潜む壮絶な過去を知らぬ江戸っ子たちは、その美声と鋭い風刺に惜しみない大喝采を送った。

彼の名声はついに城郭の重い門を叩き、加賀百万石・前田家の江戸藩邸へと招かれるに至る。威風堂々たる大広間、殺気立った武士たちが居並ぶ中央で、加賀の殿様は下座に控える半目の扇歌を見下ろし、難解なお題を投げかけた。武家の嗜みである歴史書、『吾妻鏡』である。

「これで七・七・七・五を詠んでみよ。できねばタダでは返さん」

並の芸人ならば恐れをなして平伏するところ、幼少期に人間の真の地獄を見てきた扇歌にとって、武士の威圧など痛くも痒くもない。扇歌は半目の眼を細め、ニヤリと笑うと三味線のバチを力強く振り下ろした。

「上はかね(金) 下に杭(くい)なし 吾妻橋」

大広間が凍りついた。『吾妻鏡(あづまかがみ)』を江戸の『吾妻橋(あづまばし)』と掛け合わせた見事な即興。しかし、この歌の神髄はその先にあった。「上はかね」は橋の欄干の豪華さと、幕府や権力者など「上の者」が金銭にまみれて腐敗している様を告発し、「下に杭なし」は橋の構造と「下にいる貧しき庶民は食う(杭)ものもなく餓死している」という世相への痛烈な毒を秘めていた。

天保の大飢饉で自分たち兄弟が見捨てられたように、権力者は常に庶民を見捨てる――。命をかけた風刺に家臣たちは刀の柄へ手をかけたが、殿様はその胆力と圧倒的な芸に破顔一笑し、お咎めなしと相成った。

しかし、光は長くは続かない。天保の改革という名の圧政の嵐が吹き荒れると、お上を風刺し続ける扇歌は危険分子とみなされ、ついに「江戸十里四方追放」のお裁きが下る。

最愛の舞台である寄席を奪われ、江戸を追われた扇歌が行き着いたのは、常陸国府中(現在の茨城県石岡市)にある実の姉の嫁ぎ先であった。狂気の父の犠牲となった弟を可哀想に思う姉は、傷ついた扇歌を温かく迎え入れた。しかし、高座という唯一の光を奪われた扇歌は、昼間から酒に溺れ、痩せ衰えていく。

「磯部田んぼの ばらばら松は 風も吹かぬに 気がもめる」

地元の呑み屋で三味線を頼まれれば、故郷の風景を歌ってみせるものの、かつて江戸を揺るがした覇気はどこにもない。扇歌にとっての高座とは、失った視界の代わりに手に入れた唯一の「生の証明」であり、我が身の闇を笑いと歓声で包み込んでくれる唯一の神殿であったのだ。

嘉永五年、長年の酒と心の傷が体を蝕み、四十九歳の扇歌は病床で最期の時を迎えようとしていた。実姉が看病する枕元で、うなされる扇歌は細く痩せこけた腕を空へと伸ばす。

「お姉さん……三味線を……俺の三味線を取ってくれ……」 「ダメだよ扇歌、そんな体で三味線なんて……」 「頼む……一節でいいんだ……! もう一度だけでいいから、江戸の高座に上がりたいんだよ……!」

落ち窪んだ半目の眼から涙をぼろぼろと溢れさせ、彼は泣き叫ぶように訴えた。 「おいらの都々逸を……おいらの狂歌を待ってる客がいるんだ……! 父上への恨みも、世間の冷たさも、全部歌に変えて……もう一度だけ高座で歌いたいんだよ……!」

「高座へ……高座へ……」と呟きながら、彼はついに帰らぬ人となった。

父の狂気によって片目の光と兄を奪われ、世間の冷酷さに晒されながらも、その泥の中から生まれた「都々逸」。扇歌が残した七・七・七・五の調べは、単なる色恋の俗曲ではない。理不尽な世界に痛めつけられたすべての人々の哀しみを救う、魂の告発であり、絶唱であった。

彼が去った今も、風が吹くたびどこからか、半目の天才狂歌師が弾く切なくも力強い三味線の音が、遠い闇の彼方から聞こえてくるようである。

読み物

古学庵と幻窓湖中「俳諧一葉集」について

水戸に灯した芭蕉の風

水戸の地、笠原山銀河寺の古刹で、芭蕉の正風俳諧の灯を燃やし続けた一人の俳僧がいた。古学庵仏兮。京都という文化の都を離れ、常陸の水戸に流れ着いたこの僧は、その短い生涯を俳諧という幽玄な世界に捧げた。そして、この孤高の僧と運命的な出会いを果たしたのが、若き幻窓湖中であった。

古学庵仏兮は、京都で正山、祇憲と称していた天台宗の僧である。彼が水戸の笠原山銀河寺に安住の地を定めたのは、芭蕉の「ひとつ葉」の精神を常陸の地に遺すための天命であったのかもしれない。湖中は、この師の存在を芭蕉の再来のごとく崇め、師の添削を受ける日々を「渡りに棹さす心地」と表現した。

二人が笠原の地で交わした句作の時間は、まさに芭蕉の精神を水戸の風土に根付かせるための、聖なる儀式にも似た対話であった。

しかし、その師弟の絆はあまりにも唐突に断ち切られる。文化元年、古学庵は比叡への旅の途中、富士川の難所である鰍沢(かじかざわ)にて溺死。冷たき流れに飲み込まれ、自らの志を完遂できぬ無念さの中、彼は郷里を遠く離れた旅先で静かに息を引き取ったのである。享年三十六歳。

師の最期は、湖中という弟子にとって、あまりに悲劇的で受け入れがたい現実であった。古学庵が京都から運んできた「芭蕉の風」は、この鰍沢の地で突然に途絶えることとなった。湖中にとって、この死は自身の俳諧という精神的な支柱を根底から揺るがすほどの衝撃であった。

太田資胤(初代湖中)より続く、湖中一派における正風俳諧継承の証であり、湖中が師・古学庵を深く敬慕し、芭蕉の研究において師の導きを仰いだことは疑いようのない事実であるが、俳諧の系譜と印章の継承は、湖中自身の家系および一派の中で脈々と受け継がれてきたものであった。

湖中が後に建立した供養碑や『俳諧一葉集』に師の名を冠したのは、印章による権威付けではなく、師と分かち合った「魂の共有」そのものを後世に伝えるためであった。師が鰍沢で遺した無念を、弟子である自らが芭蕉研究という形で昇華させることが、師への唯一の供養であると考えたのである。

四、執念の結晶:『俳諧一葉集』に込められた思い

師の没後、湖中は三十年という気の遠くなるような歳月を費やし、『俳諧一葉集』の編纂に着手した。鰍沢の地で師が抱いたであろう無念を、文字として、学問として形にしようとしたのである。特筆すべきは、湖中がこの大著を完成させた際、師・古学庵の名を共編として冠した点にある。自らの功名を誇ることなく、師の教えを基底に据え、師と二人で作り上げた「芭蕉の理想郷」を形にしようとしたのである。

五、時を超えて響く「一つ葉」の調べ

幻窓湖中にとって、古学庵という存在は、死してなお、芭蕉の正風を解くための永遠の師であった。鰍沢での突然の死を悼み、その教えを体系化することで、湖中は師との対話を時空を超えて継続させたのだ。私たちがこの『俳諧一葉集』を手に取るとき、そこには単なる文学的価値以上の、師弟の深い魂の絆を感じ取ることができる。古学庵が京都から水戸へと運んだ芭蕉の風は、湖中という真摯な研究者の手によって濾過され、純粋な正風の響きとなって、現代の私たちにも届いているのである。

幻窓湖中が遺した一冊の書物は、師弟を超えた共著として、今もなお、古学庵の穏やかな面影と、師を慕い続けた湖中の情熱を、水戸の歴史の中で静かに語り続けている。鰍沢の冷たい風の中で燃え尽きた師の志は、湖中の情熱という油を注がれ、こうして現代までその灯火を失うことなく輝き続けているのである。