偕楽園好文亭から望む梅の庭園

水戸藩侍医・井上玄桐が書き遺した徳川光圀公の記録

井上玄桐筆記 現代語訳

三百年の時を超え、
真の黄門様がよみがえる。

2028 徳川光圀公
生誕四百年
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お知らせ

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水戸市笠原町とは

水戸藩の歴史と共に歩んできた、
笠原町の魅力をご紹介します。

笠原町は茨城県水戸市の南部に位置し、古くから水戸藩の歴史と深く結びついた地域です。徳川光圀公が整備を命じた笠原水道をはじめ、数多くの史蹟が今なお残されています。

現在は茨城県庁をはじめとする行政機関が集積する水戸の中心地のひとつとして発展を続けながらも、昔ながらの風情を感じさせる場所が随所に息づいています。

所在地 水戸市笠原町 茨城県水戸市南部
主な史蹟 笠原水道 寛文3年(1663年)開削
現在 茨城県庁所在地 行政・商業の中心

歴史と生い立ち

水戸藩の時代から続く
笠原町の歩みをたどる。

鎌倉期の原野から、笠原水道・笠原新田、そして茨城県庁を擁する現代まで──三百年余の笠原町の歩みをたどります。

1. 中世〜近世初頭の「笠原」と地名の由来

古い歴史を持つ「笠原」の地: 笠原という名称は近世の新田開発によって突如生まれたものではなく、鎌倉時代末期の延慶2年(1309年)の『吉田神社文書』にも「吉田・笠原社御遷宮事」として登場するなど、もとは吉田村の一帯に含まれる広大な原野・社領の総称として古くから存在していました。

水戸城下を潤す「笠原水道」の誕生: 寛文2年(1662年)、水戸藩第2代藩主・徳川光圀は、水戸城下の下市地区(飲料水に恵まれず水不足に悩んでいた地域)の住民を救うため、笠原の豊かな湧水群を水源とする上水道の敷設を命じました。これが日本屈指の上水道とされる「笠原水道」です。これにより、笠原は単なる荒野・農村を超えて、藩の城下町をインフラの面から支える生命線としての重要地となりました。

2. 笠原新田の創設と「武士(馬廻り)による開拓」

藩営新田としての開発経緯: もともとは吉田村の広大な荒野であったこの地は、寛文年間(1661年〜1673年)頃から本格的な開拓が開始されました。その後、正保年間(1644年〜1648年)以降に吉田村から分立して別邑(独立した村)となり、「笠原新田」と称されるようになりました。

武士(馬廻り)の入植という特異な属性: 一般的な新田開発とは異なり、笠原新田においては、水戸藩士の次男・三男(家督を継げず部屋住みであった者たち)約60人が「御馬廻り(おうままわり)」に任じられ、この地に配置されて開拓にあたったという大きな特徴があります。武士身分でありながら自らクワを執って荒野を切り拓き、土着して農地を経営するという、水戸藩特有の郷士・藩士対策と食料増産が一体となった政策的な入植でした。

村の規模と地理的広がり: 『新編常陸國誌』によれば、村の規模は東西が約30町(約3.27km)、南北が約29町余(約3.16km)に及び、内部は「上組」「中組」「下組」の3つの組(集落)に組織されていました。また、元禄期の記録における村高(石高)は210石5斗2升4合、戸数は約40戸であり、武士層の入植によって開拓された小規模ながらも堅実な新田村落として定着していました。その後、天保13年(1842年)の記録でも石高は変わらず、田畑の広さは約25町歩に拡大し、近郊農村として水戸城下へ野菜や薪炭などの物資を供給する役割を担いました。

3. 寺社と梵鐘にまつわる歴史

信仰の拠り所: 村内には、子育て・安産の神として信仰された「笠原明神(後に子安神社)」が鎮座し、祭事は吉田村の神主(圷家)が司っていました。また、天台宗薬王院の末寺である「不勧院(漱石山銀河寺)」が置かれました。

梵鐘の銘文と年号の考察: 寺の縁起を伝える鐘の銘文には不動明王堂の修造などが記されていますが、史料上の「貞享19年」という表記は貞享が5年までであるため誤記(あるいは享保19年などの誤り)と見られます。実際に鐘の修造・落成が享保13年(1728年)に行われた記録があることなどから、当時の過酷な開拓・生活のなかで寺社が再建されていった様子がうかがえます。

4. 明治維新から昭和の純農村時代へ

町村制の施行と緑岡村への編入: 明治維新を経て、明治22年(1889年)の町村制施行に伴い、笠原新田は周辺の千波村、見川村、見和村、小吹村、平須村などと合併して東茨城郡緑岡村が発足しました。これにより、行政上の大字として「笠原」が設置されました。

戦後の変遷と水戸市への統合: 長らく緑岡村の大字として、豊かな田畑と雑木林、湧水が織りなす典型的な近郊農業地帯であり続けましたが、昭和27年(1952年)4月1日に緑岡村が水戸市に編入されたことに伴い、水戸市笠原町となりました。昭和30年代以降は、水戸市の人口増加に伴うベッドタウンとしての宅地化の波が徐々に押し寄せ始めます。

5. 茨城県庁の移転による「政治・行政の中心地」への劇的な変貌

新・県庁舎の移転(1999年): かつて水戸市三の丸にあった手狭で老朽化した茨城県庁舎は、都市機能の分散や交通渋滞の緩和、21世紀の広域行政拠点としての要請を受け、平成11年(1999年)に緑岡地区(かつての関東林木育種場あと地)へ大規模に移転しました。

現代の姿: 県庁移転を契機に、周辺一帯は大規模な土地区画整理事業と道路網の整備が急ピッチで進められました。かつての江戸時代の原野「笠原新田」から昭和の静かな農村風景を経ていまや当時の面影は完全に消え去り、威容を誇る高層の茨城県庁舎を中心にした政治・経済・行政の中心地へと劇的な変貌を遂げ現在に至っています。

国・県の庁舎やマンション、オフィスビル、大規模商業施設などが整然と立ち並ぶ周囲には戸建て住宅がひしめき、一見すると新興住宅地が突然出現したかの様な状況となっています。

しかし300年以上の歴史の中にこそ笠原町は生きているのです。

寛文3年(1663年)

徳川光圀公、笠原水道の開削を命ずる

近代

農村地帯から都市化への変遷

平成11年(1999年)

茨城県庁が笠原町に移転

現在

行政・商業の中心地として発展を続ける

よみもの

笠原の史蹟と、水戸黄門ゆかりの文化・人物について、詳しくご紹介しています。

Historic Sites 史蹟 笠原不動尊・不動明王立像・笠原水道・浴徳泉碑・漱石所址ほか ページを見る → Culture & People 文化と人物 救民妙薬・司命丸・漫遊記・井上玄桐・都々逸坊扇歌・古学庵ほか ページを見る →
偕楽園の白梅

偕楽園の白梅 ── 光圀公が愛でた早春の風景

弘道館の紅梅

弘道館の紅梅 ── 光圀公が創設を構想した藩校の地

偕楽園の紅梅

歴史の荒波の中で彼らが共有した濃密な時間と、
公の人間臭くも熱い生き様は、
時空を超えて現代を生きる私たちの胸を打つ。

——豊田洋一「後書」より

序文・後書

『井上玄桐筆記 現代語訳』に寄せた、訳者・豊田洋一による序文と後書。

Preface序文

本書は、水戸藩主・徳川光圀公が隠居する折に西山の地へと帯同し、その最期に至るまで常に御側近くで仕え続けた儒医・井上玄桐の筆記を現代語訳したものである。

光圀公の崩御後、京へと戻る玄桐が大日本史編纂の責任者である安積澹泊(格之進)へ上程した生前のエピソードの数々は、まさに最高の後宮史料であり、一級の人間記録にほかならない。

公の事績や生涯を公的にまとめた伝記『義公行実』が、いわば歴史の表舞台に立つ「表の黄門様」の姿であるならば、本書に描かれているのは、映画や小説などのフィクションでは決して語られることのなかった、生身の人間として生きた真実の「黄門様」の姿である。

偉大な名君という評価の陰で、一人の人間として苦しみもがきながらも「真の生き方とは何か」を愚直に追い求めた、その生々しい葛藤の人間模様。読者諸賢には、時代を超えて響く光圀公の息遣いを、ぜひ本書から熱く読み解いていただきたい。

Afterword後書

本書の刊行を終えるにあたり、改めて井上玄桐という稀代の目撃者が遺した言葉の重みに思いを馳せている。光圀公の崩御後、玄桐が京都へ戻る際に安積格之進(澹泊)へと託したこの記録は、後世に編まれたいかなる物語よりも鮮烈に、主君の素顔を今日に伝えている。

世間が抱く「天下の副将軍・水戸黄門」のイメージは、多分に理想化された表層の姿に過ぎない。しかし玄桐の眼が捉えていたのは、偉業の影で葛藤し、一人の人間として苦悩しながらも高潔に生きようとした光圀公の真実の歩みであった。

歴史の荒波の中で彼らが共有した濃密な時間と、公の人間臭くも熱い生き様は、時空を超えて現代を生きる私たちの胸を打つ。

本書の出版にあたり、解読と翻訳を支えてくださった関係各位、そして何より、文字を通じて「生身の黄門様」の叫びを熱心に読み解いてくださった読者の皆様に、心より深く感謝を申し上げます。

令和八年七月 訳者識

第七十八話「鶴殺しの長作」

心で斬って助命 ── 光圀公の慈悲と政治の知恵を伝える一話。

現代語訳

藩主時代に松前から取り寄せた丹頂鶴のつがいを、小石川の庭で飼っていましたが、ご隠居の後に西山へ移して白坂で飼われました。時々籠を開けて放すと、西山をはじめ近所の村々まで歩いていきました。その高潔な様子は、誠に隠居所の素晴らしい眺めであると言い合っていましたが、どんな者の仕業か、西山の近所の天神林にある「鶴が池」という所で、オスの鶴が背骨を刀で斬りつけられた痕があって死んでいました。残ったメスの鶴は久昌寺へ送られました。

いろいろ取り調べましたが犯人は知れませんでしたが、時が経って天神林村の百姓の下人・長作という者が自首して牢獄に繋がれました。昔から「鶴を殺す者は助命嘆願も許されない」という掟があります。まして光圀公の愛鳥を殺したのですから、どんな重罪になるだろうと人々は言い合いました。

ちょうど湊(那珂湊)へお出かけになった時、代官の五百城茂太夫がその囚人を引き連れて来て、御長屋につないでおきました。「明日は光圀公が御自ら袈裟懸けに斬る」とのことでした。

翌日、朝から玄関の前へ砂を持ち込んで処刑の土壇場を築きました。朝食過ぎに「いざ表へ出るぞ」と仰せがありました。その時、大聖院と帰願寺という僧侶が詰めていましたが、「大聖院は来るな、帰願寺だけ参れ」と言って連れて行かれ、囚人を土壇場に座らせました。

光圀公は右の衣を肌脱ぎし、刀を取って後ろに控えられました。そして囚人の前へ近寄り、「あの肌脱ぎのさせ方は悪い」と言って、ご自身の手で腹の方を押し開けさせ、「お前は爪先から頭のてっぺんまでズタズタに斬っても飽き足りない。罪のない鶴を殺して、今我が身に報いが来たことを悔しく思うだろう」などと仰いました。

そして羽織を退け、袴の裾を高くからげ、脇差を抜いて後ろへ回り、長作の右肩に刀を二度当てて狙いを定められました。斬る場所を定めたと見えました。もはや刀を振りかぶって斬り放つばかりと見守っていましたが、しばらく躊躇されたので、「どうされたのか」と見守っていると、「新八」とお呼びになりました。中村新八が御意に従って「はっ」と答えてお側近くへ参りました。

「あまりの腹立たしさに手にかけて斬ろうとこのようにした。刃を放つということは、この刀を振り上げたまでの動作である。精神的にはもはや斬ったのと同じことだ。この者を斬ったからといって鶴が生き返ることはない。鳥ごときのために人を死刑にするのは悪い政治である。助けてやろうと思う」

と仰ったので、新八は「ごもっとも至極、ありがたいお言葉です」と申し上げ、居並ぶ者たちは皆万歳を唱えてどよめきました。

「それでは茂太夫に申し付けて、夏海の境界へ追放せよ。ただし、どこへ行っても与えられる物がなければ飢え死にするだろう。それでは助けた甲斐がない。米を少し袖へ入れて与えよ」

と仰ったので、村島奥十郎が長屋で飯を食べさせ、米を与えました。そして茂太夫が役人共に命じて追放しました。行く先々でも、「鶴を殺して斬られるはずの者が、君のご慈悲に助けられたのだから、飢えさせたり凍えさせたりするな」と言って人々が育んだので、困窮することなく暮らしたということです。

後に仰ったことには、「僧侶の大聖院を止めたのは、もし彼が助命嘆願を言い出したら処刑の芝居が崩れると思って連れて行かなかったのだ。帰願寺は俗人と同然の人だから、連れて行っても差し支えないと思ったのだ」とのことでした。

井上玄桐筆記 現代語訳

井上玄桐筆記 現代語訳

刊行準備中
書名
井上玄桐筆記 現代語訳
現代語訳
豊田洋一
編集・装丁
高木真矢子
頒布形態
非売品(刊行後、水戸市内の教育機関・図書館へ寄贈予定)

※ 本書は現在刊行準備中です。刊行・寄贈の時期が決まりましたら、あらためてお知らせいたします。

協賛企業

(有)笠原開発 不動産情報 (株)豊田設計 設計実績はこちら